旅のインフォメーション ハワイの歴史・英雄|カイラ カフェ&テラスダイニング 渋谷店

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旅のインフォメーション ハワイの歴史・英雄

ハワイの歴史

ハワイのはじまり

ハワイのはじまり

ハワイの歴史の始まりは、6世紀頃からと言われています。6世紀頃東南アジアから東へ移動した民族がハワイに移り住みはじめたと類推されています。

その後13世紀そして14世紀の間に、ハワイ原住民は数多くのタヒチからの移住に圧倒させられました。実際、ハワイ諸島に一番初めに住み着いた人々はポリネシアの航海者だったと言われます。そして、初めにこの島を訪れたヨーロッパ人は、1778年の英国の探検家大尉ジェームスクック(Captain James Cook)で、彼が今のサンドイッチ島を英国のサンドイッチ伯爵の名と取り、名付けたと言われています。

クックの訪問の際に、列島はハワイ(ビックアイランド)、オアフとマウイ、そしてラニアとモロカイ島の3つの王国に分けらました。当初は島民たちに歓迎されて上陸したクックでしたが、徐々に島民との間にいさかいが増え、ついには流血の争いが勃発し、1779年にハワイ島ケアラケクア湾で殺害されてしまいます。

ハワイ王朝時代

クックが来航するまでのハワイは、数多くの首長が存在し、権力争いを繰り返しながら各地を分割統治していましたが、1775年にハワイ島の王となったカメハメハが全島統一へと乗りだしたのを機に、1810年「ハワイ王朝」が誕生しました。
さらに、1795年にカメハメハがハワイ全島の支配のためマウイ島の攻略を開始し、間もなくマウイ島、モロカイ島を手中に収め、オアフ島に上陸したカメハメハ軍は激しい戦闘を続けた後、ヌウアヌ・パリの戦いで勝利してカウアイ島を除くハワイ全島を支配下に収め、1つの王国としました。この王国は1883年にリリウオカラニ女王が王権を放棄するまで、八代の王がハワイを治めました。

ハワイ共和国

カメハメハ2世になってからは、それまでの風習を廃止し、キリスト教の伝来と時同じくして、自然信仰の神官等も廃止されました。1820年にキリスト宣教師がハワイ上陸してからは、プロテスタントが急速に広まり、カメハメハ3世の時代には、キリスト教はハワイ王室のバックアップでハワイ全土に浸透していき、ハワイ語をアルファベット表記にしてキリスト教の聖書も普及しだします。この時代には、欧米人も政府に加わり政治制度もヨーロッパを真似て憲法も発布されます。

その後、イギリスやフランスのヨーロッパ勢力が一時的にハワイを武力制圧する事もあり、ハワイはアメリカとの併合を模索し始めます。同時に、発展した砂糖産業に移民を呼び込む政策で日本とも近づき、日本の皇室との間に婚姻関係を結ぼうとしましたが、この試みは未成就のまま終わってしまいました。
その後、19世紀末頃に即位したリリウオカラニ女王は王権の拡大を計ったのですが、そのことでアメリカとの間で紛争が起こり、最終的には女王の降伏でハワイ王朝の終焉となったのでした。そして19世紀末期、白人による暫定政府が樹立され、独自の憲法を発布してハワイ共和国が建国されたのです。

現代

その後、アメリカとスペインとの間で米西戦争が勃発し、ハワイは重要な戦略拠点になるため、かつてからのハワイの願いであったアメリカとの併合が実現します。
1897年3月の大統領のマッキンリー(McKinely)就任式で、米国との併合交渉が行われました。ハワイは議会の決議案によって、ハワイ準州(米自治領)となり、ハワイの主権はアメリカ合衆国へ移譲されました。

1914年に始まった第1次世界大戦には、アメリカ軍兵士としてハワイの先住民も参戦し、先住民もアメリカ市民として認められ、アメリカの領土としての存在が確実になります。
1941年12月7日日本の真珠湾攻撃によって、アメリカの第二次世界大戦が始まりました。ハワイは太平洋の重要な基盤操作とされ、アメリカが太平洋戦争に勝利するのに役立ちました。
1958年、ハワイの市民はハワイがアメリカの州になる事を支持し、1959年3月にドウエイト・アイセンパワー(Dwight Eisenhower)大統領が独立国家の手形に署名をしました。そして、ハワイは正式に1959年8月21日にアメリカ第50州となったのです。

ハワイの英雄

カメハメハ大王

ハワイ国王カメハメハ一世(在位1795年-1819年)。カメハメハという言葉の「カ」は「人」を表し、「メハメハ」という言葉は「孤独」という意味を表します。つまり、「カメハメハ」とは孤独な人という意味の言葉です。
カメハメハ大王像は、左手に槍を持っており、槍は「平和」の象徴であり、右手をあげているところは、ハワイの繁栄を意味しているのだそうです。
カメハメハはビッグ・アイランド(ハワイ島)のノース・コハラで生まれ、西洋の影響が強くなる中、1810年にハワイ諸島を1つの王国に統一。ビッグ・アイランドのプウコホラ・ヘイアウは、ハワイ統一を祈願するため神官のお告げに従って建てた神殿です。

カメハメハ大王の銅像は4体あり、最も有名なものは、オアフ島、ホノルル・ダウンタウンのアリオラニ・ハレ正面(イオラニ宮殿の向かい)にあります。2つめは生誕地の近く、ビッグ・アイランド(ハワイ島)のノース・コハラ・シビックセンターの前、3つめは、ビッグ・アイランド(ハワイ島)、ヒロのワイロア川州立公園、4つめは、ワシントン DC の国立彫像ホールに置かれています。 毎年、6月11日のカメハメハ・デーになると、カラフルなレイが幾重にもかけられるそうです。

聖ダミアン

Father Damien(1840年1月3日 - 1889年4月15日)。聖ダミアンは、現在のカウラパパ国立歴史公園でハンセン病患者のケアに16年間尽力したカトリック司祭です。1840年生まれ、ベルギー出身、本名はヨセフ・デ・ブーステル。1864年にオアフ島に宣教のために来ました。 ホノルルのアワー・レディー・オブ・ピース大聖堂で叙階を受けダミアンの名を受けます。ここは今でも使われている米国最古のローマ・カトリック大聖堂です。

1863年、同じ修道会にいた兄がハワイへ宣教師として派遣されることになっていましたが、チフスによって急遽派遣が中止に。ダミアンは長上に特別な許可を願ってハワイへ派遣される事になりました。
ビッグ・アイランド(ハワイ島)での活動が8年目に入ったところで、ダミアン神父はモロカイ島でハンセン病患者のケアに神父が必要とされている事を知ります。ハンセン病は皮膚、神経、手足、目に影響が出る慢性的な疾患です。
当時、ハンセン病がハワイ諸島で猛威をふるい、感染経路も治療法も見つかっていなかったため、いわば患者の「生ける墓場」となっていた隔離地モロカイ島へ彼は渡る事を望みました。
モロカイ島の他のエリアから海食崖で切り離されたカラウパパには、ハンセン病患者が1866年から1969年まで強制的に隔離されていました。 ダミアン神父は33歳の時にここを訪れ、患者のケアに生涯をささげます。

やがてダミアン神父もハンセン病に感染、生涯をささげてケアに取り組んできましたが、49歳の若さで1889年に亡くなりました。1995年ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世より列福され、2009年10月、教皇ベネディクト16世によってバチカンで列聖式が行われ、聖ダミアンとなりました。

デューク・カハナモク

デューク・カハナモク

Duke Paoa Kahinu Mokoe Hulikohola Kahanamoku(1890年8月24日 - 1968年1月22日)。クヒオ・ビーチで、デューク・カハナモクの銅像が両手を広げてワイキキを温かく見守っています。ハワイの英雄、デュークは水泳とアウトリガーカヌーの達人。世界最高の「ウォーターマン」です。 ワイキキの現在のヒルトン・ハワイアン・ビレッジ・ビーチ・リゾート&スパの近くで幼少期から水泳やサーフィンに親しみました。 初めて出場した大会で100ヤード自由形の世界記録を更新。驚異的な能力で大きな注目を集めました。 1912年のオリンピックでは、100メートル自由形で金メダル、リレーで銀メダルを獲得。1920年には金メダル2つ、34歳で出場した1924年のオリンピックでは銀メダルを獲得しました。ワイキキ・ビーチで観光客にサーフィンやカヌーを教えるワイキキ・ビーチ・ボーイズの創始者で、 今でもワイキキではその遺志が引き継がれています。 サーフィンを世界中に知らしめた「近代サーフィンの父」であり、競技生活引退後はホノルル郡の保安官を勤めながら、水泳やサーフィン等のウォータースポーツの振興に尽力し、さらには公式に任命されたハワイの親善大使として大いに活躍しました。